道-Tao-を描く 〜老子を詠む女性画家たちの講読会〜

<一晴画廊 企画展ブログ> 中国古典の名著、老子『道徳経』をテーマに2018年10月30日(火)〜11日11日(日)に京都の一晴画廊にて展覧会を開催します。それぞれの画家が老子を読み解き、絵画へと変換していく思考の過程を一般公開する、新しい試みのブログです。

二十、唯と阿を相い去ること幾何ぞ その1  山名しおり

 山名しおりです。

 

夏休み中なので、息子と図書館へ行くことがたまにあります。

息子は絵本を選びに行きますが、せっかく図書館に来たのだからと愚図る息子を引っ張り中国古典のある書架を通りました。

表紙から面白そうでしたので、手に取ってみたのがドリアン助川さんの本です。

とても読みやすくまとめられています。

 

そこで、「第20章 唯と阿を相い去ること幾何ぞ」について、ドリアン助川さんが

上記著書の「孤独との対峙」という章で触れておられます。

本題とは外れますが、その中で

「中国のインテリ家庭は応接間に論語、寝室には老子!?」という見出しで触れられているところがあります。

ドリアン助川さんの見出しや小見出しにも面白いタイトルを付けておられますので、そこを拾いながら、取り上げられた章の書き下し文や現代語訳を読んでいくのも楽しいなと思います。

幾つかシリーズで書いておられるようですので、また他のシリーズも手に取ってみたいなと思っています。

 

第20章についてはまた次回以降に触れていきたいと思います。

 

<書き下し文> 

学を絶てば憂いなし。唯(い)と阿(あ)と相い去ること幾何(いくばく)ぞ。善と悪と相去ること何若(いかん)ぞ。人の畏(おそ)るる所は、畏れざるべからざるも、荒(こう)としてそれ未だ央(つ)きざるかな。衆人は煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるが如(ごと)く、春に台(うてな)に登るが如し。我れは独り怕(はく)としてそれ未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だ孩(わら)わざるが如し。儽儽(るいるい)として帰(き)する所なきが如し。衆人はみな余り有るに、而(しか)るに我れは独り遺(うしな)えるが如し。我れは愚人の心なるかな、沌沌(とんとん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たり、我れは独り昏昏(こんこん)たり。俗人は察察(さつさつ)たり、我れは独り悶悶(もんもん)たり。澹(たん)としてそれ海の如く、飂(りゅう)として止(とど)まるなきが如し。衆人はみな以(もち)うる有り、而るに我れは独り頑(かたくな)にして鄙(ひ)なり。我れは独り人に異なり、而して母に食(やしな)わるるを貴(たっと)ぶ。

 

 

 

 

 

 

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