道-Tao-を描く 〜老子を詠む女性画家たちの講読会〜

<一晴画廊 企画展ブログ> 中国古典の名著、老子『道徳経』をテーマに2018年10月30日(火)〜11日11日(日)に京都の一晴画廊にて展覧会を開催します。それぞれの画家が老子を読み解き、絵画へと変換していく思考の過程を一般公開する、新しい試みのブログです。

二十、唯と阿を相い去ること幾何ぞ その2    山名しおり

山名しおりです。

 

引き続き「二十、唯と阿を相い去ること幾何ぞ」について触れていきたいと思います。

 前回ドリアン助川さんの著書でも、この章は「孤独との対峙」として取り上げておられると紹介していますが、このブログでテキストとしている金谷治さんの著書でも

現代語訳の下に(孤独の歌)と記載しておられます。

 

現代語訳を部分的に紹介します。

 

学ぶことをすっかりやめたなら、思いわずらうこともなくなるのだ。

「唯(はい)と」いうのと阿(ああ)と答えるのと、どれほどのへだたりがあるだろう。

(中略)多くの人はうきうきと楽しそうにして、まるで大ごちそうを受けているようだ、まるで春の日に高台から見はらしているようだ。

私だけはひとり、ひっそりと静まりかえってなんの動く気配もみせず、まだ笑うこともできない赤ん坊のようだ。ぐったりとしおれてまるで身のおきどころもないようだ。多くの人はだれもがあり余るほどもっているのに、わたしだけはひとり、何もかも失ってしまったかのようだ。

多くの人はだれもがあり余るほどもっているのに、わたしだけはひとり、何もかも失ってしまったかのようだ。さてもわたしは愚かものの心だよ、にぶくてはっきりしないのだ。

(中略)多くの人はだれもが何かの役にたつのに、わたしだけはひとり融通のきかない能なしだ。わたしだけはひとり、他人とは違っている、そして母なる根本の「道」に養われることをたいせつにしているのだ。

 

この章を読み込んでいくときに、一番に思い出したのは過去の自分の体験でした。

心身共に調子を崩した時、流産を体験した時、ふと「今までどんなふうに楽しいと感じていたのだろう。どうやって笑っていたのだろう。」と思ったことがあります。まさにこの章で書かれているままに「自分だけが笑えない。他の人は笑えて羨ましい」と。そんな風に感じたことを思い出しました。

 

現在月日が経ち、現在の私がどうかと言われれば、当時の私より以前の「心から楽しい」と感じていた私に戻った訳ではありませんし、辛いままの気持ちでいるわけでもありません。しかし、当時の気持ちや体験があってこそ現在の私が在るように思います。

 

この章は色んな解釈ができますが、どうしようもなく湧き上がる思いを無駄なことと思わなくて良い、何故自分がそのように感じるのか向き合ってみることの意味を考えさせられると思うのです。

孤独ともいえる誰にも分ってもらえないような感情と一人向き合うことにも意味がある。私はそんな風に捉えています。

ゆっくりと向き合うことで生々しい感情の湧き上がりだけで終わらず、自分自身の次の思考に繋がっていく。

一見、しんどそうな時間ではあるのですが、それはとても豊かな時間なのかもしれません。

 

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