道-Tao-を描く 〜老子を詠む女性画家たちの講読会〜

<一晴画廊 企画展ブログ> 中国古典の名著、老子『道徳経』をテーマに2018年10月30日(火)〜11日11日(日)に京都の一晴画廊にて展覧会を開催します。それぞれの画家が老子を読み解き、絵画へと変換していく思考の過程を一般公開する、新しい試みのブログです。

十四、これを視れども見えず  山名しおり

山名しおりです。

 

老子を読むにつれ色々な受け取り方が、沸き出てきて言葉にならない時があります。

「十四章 これを視れども見えず」の現代語訳などを読むと、「感覚や知識を超えたそのおぼろげなものを、なんとか手探りで尋ね当てようとする実践性がある」と解説されています。

その解説を念頭におきつつ、 

この章を読み込んでいくと感覚や知識で捉えられないものを捉えようとしているのにも関わらず、その根底には「日常の中で感じる思い」があるように私には思えてなりません。

手探りで「道の中心」を捉えようとしている言葉は、どこか静かなところで瞑想している中で出てきた言葉というよりも日々を生きていく中で生まれてきた言葉であるように思うからです。

 

日々の中で「何か掴めた」と感じる瞬間はありますが、スルスルとその掴めた「何か」は逃げていってしまうことがあります。

それは、例えば制作の中で、筆を使い色を置いた瞬間、水分が紙に染み込んでいるそのとき、自分の表したいものが掴めたような瞬間があります。

でもふと我にかえってまた画面を眺めると「果たしてそれは確かなのだろうか」と感じることもあります。

 

ふと、臨床心理士の先生からこんな言葉を教えてもらったことを思い出しました。

 

「日常の中で考え、得たことは説得力のあるものです。日常から自分自身で考えながら得たことに自信を持ってください」

 

認知行動療法は基本的に「捉え方の歪み」を自覚するために、繰り返し客観視しながら、自分自身でその過程も含め認識し修正していくものですが、今また老子の言葉に触れるなかで「日常から得ること」と「日々の揺らぎを客観視する」その大切さに気付かされた気がします。

 

日々「これを視れども見えず」というものを探っていくこと。

日常の中で、その思いに根差した表現を模索していきたいと思います。

 

〈書き下し文〉

これを視れども見えず、名づけて夷(い)という。これを聴けども聞こえず、名づけて希(き)という。これを搏(とら)うるも得ず、名づけて微(び)という。この三つの者は詰(きつ)を致すべからず、故(もと)より混(こん)じて一と為る。その上は皦(あきら)かならず、その下は昧(くら)からず。縄縄(じょうじょう)として名づくべからず、無物(むぶつ)に復帰す。これを無状(むじょう)の状、無物の象(しょう)と謂(い)い、これを惚恍と謂う。これを迎うるともその首(こうべ)を見ず、これに随(したが)うともその後(しりえ)を見ず。古えの道を執(と)りて、もって今の有を御(ぎょ)すれば、能(よ)く古始(こし)を知る。これを道紀(どうき)と謂う。

 

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