山名しおりです。
先日の記事で母の言葉から気付づかされたことを書きました。
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息子とのやりとりでもふと気付かされたことがあります。
テレビを見ていた息子に、きちんと外出の旨を伝えず「少しだけ」と思い10分ほど外出した際のことです。
帰ってくると半分玄関のドアを開けて涙声で私の名前を必死に呼んでました。
少しだけと私が勝手に判断し「悪かったね」と謝りましたが、その際の息子の話に少し驚かされました。
「オレ部屋の中を色々探したんや。何回も呼んで、もしかしたらお母さん物凄く小さくなって、返事してくれてもオレが聞こえてないだけじゃないかと思って。
小さくなったお母さんが返事してくれても(体が小さいと声も小さくなって)聞こえないからオレが気付けてないだけなのかと思った」
少しおとぎ話のように感じられるかもしれませんが、息子は私が「居なくなった」のではなく「見えなくなった」だけだと思ったというのです。
目に見えないから居ないと先に考えずに、自分自身の通常の五感で捉えられないだけではないのか?と発想したところに息子の子供らしい純粋な感性を感じたとともに、大切なことを教えてもらった気がしました。
私たちは目に見えるもの、実体があるものに捉われすぎている時があります。
老子を読み込むためには、目に見えないものに耳を澄まし、小さな変化に思いを馳せることのできる感性が必要だと感じる瞬間があります。
それは老子道徳経の文章表現の至るところに自然観察の眼差しも沢山みられることからも推察できます。
私も見えないものに思いを馳せる感性を大切にしたいと思った出来事でした。